カテゴリー「ふと、思う」の13件の記事

2009/08/13

京橋空襲

もうすぐ終戦記念日を迎えるが、
この日の事を思うと、ある空襲の事が頭をよぎる。

1945年8月14日午後1時16分、
145機ものB29爆撃機の編隊が大阪に飛来し、
当時、大阪城内にあった大阪砲兵工廠を壊滅させる為、
総計700トンもの爆弾を投下した。
爆撃時間は45分ほどであったが、
そのうちの1発が標的を外れ、
大阪城に隣接する京橋駅を直撃する。
そのとき駅内には多数の乗客がおり、
700~800名もの人間が命を落とした。
そしてあくる15日、日本は終戦を迎える。

京橋空襲

終戦があと1日、早ければその人たちは死なずにすんだのに・・・。

そもそも戦争がなければ大勢の人間が死ぬ事もなく、
それぞれがまったく違った人生を送ったろうに、
とつくづく戦争って罪深いと思う。

今も戦争責任や軍備の必要性を巡って論議されているが、
戦争そのものより論客たちの背景にある思想や政治的なものが、
ちらちらしてどちらの言い分も腑に落ちないことが多い。

そういった持論を持った人たちが議論を交わす際には、
どんなに主義主張の違う者同士であっても、
まずは一緒に犠牲者らに手を合わせて欲しい。

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2008/12/28

うたかた

何度、誕生日を迎えても、なかなか年をとるという実感がわかない。

でも、そのことを感じる出来事が二つほどある。

ひとつは同年代の知人らが家庭を持ち、お父さんお母さんになること。

もうひとつは自分の幼い頃を知る人々が、年々少なくなっていくこと。

今日、小さい頃からよく知っていた親類が亡くなったとの訃報がある。

また一人、過去を共有する人がいなくなった。

これから年を重ねるごとにそういう機会が増えていくだろう。

まことに寂しいことだが、だからこそ人とのつながりは貴重。

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2008/11/01

あの日の絵日記

若い頃に広島で原爆で被爆した女性が、
大人になってから当時の様子を絵日記として再現。

グランドゼロ1945

これを描かれたのが58歳とのことなので、
おそらく40年は経っているはず。
なのに、まるで昨日の出来事のように克明に描かれている。

ご本人がこの絵を描いている時の心境を思うと、
なんだか堪らないものがある。

他にも原爆の記憶を再現した絵は多いが、
どれも非常に生々しい。

忘れてしまいたいとても恐ろしい出来事のはずが、
いかに鮮明な記憶として焼きついているかが忍ばれます。


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2008/01/17

震災の記憶(再掲載)

今年も1月17日がやってきた。

13年前に阪神淡路大震災があった日だ。

社会的にも自分のなかでもどんどん風化していくことを感じつつ、
やはり忘れてはいけないだろうと思う。

そこで2005年1月の記事を再掲載しておきます。

震災の記憶(過去記事)

安政南海地震

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2007/12/12

なんか不快

全国で定期的に開催されている「人体の○思議展」。

未だ行ったことはないが、
チラシなどに載っている血管や筋肉が、
むき出しになった人体標本の写真で、
大体の内容は想像できる。

開催の主旨としては普段みることのない、
人体の中身を「生」で観ることによって、
生命に対して驚きと感動を・・・、
といったものだろうとは思う。

でも、どうも自分には死体を、
物珍しげに見物するだけのように思えて、
趣味が悪い感じがしてしょうがない。

献体した人の生前の意志を尊重とあるけど、
なにやらポーズをつけさせられた写真をみる限り、
やっぱり見世物としか思えない。

主旨通りに感動する人もいるんだろうけど、
多分、自分にはその感性はない。

特殊清掃「戦う男たち」
※閲覧注意

かなりハードな内容だけど、
同じ死体を扱うのなら、こちらのサイトのほうが、
いろいろと考えさせられる。

(追記)
なぜ不快に思うのか、
その後もいろいろ考えてみた。
標本がすべてまったくの作りものなら、
そう抵抗もなかったと思う。
かって生きていた人間の身体を使っていながら、
そこからは故人を偲ぶ、あるいは「死」といったものを
あまり連想させないことに一番ひっかかる。

檀林皇后九想図
※閲覧注意

その昔、壇林皇后という女性が、
鳥や獣達を飢えさせないようにと、
自分の死後、遺体を埋葬せず野原にさらさせ、
朽ち果ててていく様子を絵師に書き留めさせた、
との言い伝えのある絵。

なんとも切なくなる絵だけど、
これも人の本来の姿なのかと、
思い知らされる。

そもそもテーマが違う!といわれれば、それまでだが。


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2007/10/20

ある動画

最近、ユーチューブの宗教紛争を扱った某ドキュメント動画を観る。

7分足らずの再生時間だが、
集団による狂気がもたらす惨状がどういうものか、
ありのままの映像で詰め込まれていた。

組織的な憎悪。

復讐の連鎖。

戦争に巻き込まれるということは、
こういうことだろうと思う。

でも、インターネットというバーチャルな世界では、
どんな悲惨な映像も、
「グロ」「エグイ」「こんなのみたって全然平気」
という他人事としか捉えられなかったり、
それどころかスプラッター映画を観るような感覚で楽しむ人間も大勢いる。

それは死者に対する冒涜でしかない。

現実を知るためには、
目をそむけることなく直視することも
必要との意見もあるが、
果たしてどうなんだろう?

映像はあくまで映像であり、
現実を知るということにはならない。

まして実際の戦争体験を聞いても、
街中に転がる死体の山に、
最初の頃こそ恐怖や哀れみを感じても、
やがては感覚が麻痺していくそうだ。

現実を知る知らない以前に、
他人の痛みがわかる感性が
あるかないかが問題だろう。

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2007/09/04

犬を飼う

自分が生まれた時から、
自宅には犬がいた。

小学2年生のとき自分が名付けた子犬が死んでしまった時、
生まれた初めて自分のこと以外で泣いた。

リキ、ペロ、ジュリー、ヤマト、七公、ヒロ・・・。

拾ってきたり迷い込んできたりと、
絶えることなく何十年も家には犬の姿があった。

でも5年前に最後の犬がいなくなってから、
また飼ってみたいという気持ちはあるものの、
現在に至るまで我が家では犬は不在のまま。
理由は・・・。

犬を飼うってステキです-か?

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2007/08/01

優しい気持になれたら

人間は感情の動物と言われている。

でも、自分自身に対しては常々、感情の気薄感がつきまとう。
とてつもなく冷たい人間なのでは、と思うこともある。

もうずいぶん前のことだが、
あることで意識的に感情を消し去るようにしていた。
そして一切の感情を表に出さない人間になった。

今はだいぶましになったが、
どうもその頃のことが影響している感じだ。

経験によっては人間を特徴づけるはずの感情が失われてしまう、
という話をときどき聞くが、そういうものだろうと実感できる。

数年前、父親が病で倒れたとき、
これから生活など大変になるなぁ、
と思いはしたが感情的には平静だった。

そんな自分に対して、
ひょっとして「そのとき」が来ても、
自分は平常心のままではと考え怖くなった。
そして、そんな自分がとても嫌だった。

1年後、病院にて父の臨終に立ち会った。
その瞬間、それまで固まっていた感情が崩れ、
堰を切ったように涙があふれてきた。
もう会えない、悲しい、寂しい、無念だったろう・・・。
いろんな感情が交錯していった。
自分でも意外だった。
この気持があったら、
病で倒れた父に対してその後の1年間を、
もっと優しい気持で接することができたのではと、
後になって後悔した。

思えば自分が人に対して優しい気持になるといえば、
自分自身が落ち込んでいたり、辛いときになることが多い。
ちょうど健康なときはそのありがたみがわからず、
病気になったとたんにそのありがたさがわかる、
ということに似ているかも知れない。

普段からそんな気持でいることができたら、
自分も他人に対してももどんなにいいだろう、と思う。

心無い言動で他人を不必要に傷つけてしまったり、
そのことで自己嫌悪に陥ることも少なくなるだろうに・・・。

でも喉もと過ぎればなんとやらで、
すぐに冷たく傲慢に人間に戻ってしまう。

これからも、後悔と反省を繰り返しながら生きていくと思うが、
そのあとで少しずつでも「優しい気持」が持続して欲しいと願う。

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2006/12/20

Yさんのこと

ずっと昔、福祉系のボランティア活動をしていた時期があった。
そこでYさんという青年に出会った。
Yさんは病院に入院していたが話相手を探しており、自分がその相手として病院に通う事になった。

元々、Yさんは山と旅が好きな活動的な青年だった。
しかし東南アジアを旅行した際、伝染病にかかってしまう。帰国後40℃以上の高熱が続き、一週間ほど生死をさまよった。なんとか一命はとりとめたものの、首から上以外、全身麻痺という身体になった。その後は病院で何年も寝たきりの生活を送っていた。

病室を訪れると闘病生活のためすっかり痩せ干そったYさんがいた。喉の切開手術を受けており、そこからは人工呼吸器がつながっている。

「はじめまして」

Yさんがわずかに首だけを動かし挨拶をする。ほんんど声が出ていないが、口の動きでかろうじて言葉がわかった。

Yさんはいつもニコニコしていて、自分に不快な思いをさせないように気遣ってくれていた。会話の内容はYさんの昔の思い出話を聞いたり、世の中の動きについての質問に答えたりといった感じだった。Yさんに頼まれて「山と渓谷」という雑誌を買って持っていたこともある。その頃、自分はアウトドアにまったく興味がなかったので、楽しいそうに山の話をするYさんに、「へー」「そうでうすか」など相づちを打つ程度だった。

最初にYさんの余命が長くはないと聞かされていたので、変なことを言ってはいけないと、言葉を慎重に選ぶびながら話をしていた。自分はYさんよりも10歳も若かったせいもあり、共通の話題も少なかった。なので会話はいつもあまり弾まなかった。また言葉が聞き取れず、何度もYさんにもどかしい思いをさせた。話相手としては最後まで役不足だったと思う。

時々、病室でお見舞いにきていたYさんのお父さんと一緒になった。決まって二人は些細なことで口論を始め、それをみているのが辛かった。どちらも自分と二人のときは、とても明るく感じがよい人なのに。長い入院生活が続き、お互いいっぱいいっぱいだったんだろう。

全身麻痺ながら辛うじて手の指を動かせたYさんは、ワープロを使ってたくさんの文書を残していた。その文章を一部みせてもらったことがあるが、内容は自分の生い立ちを記録したものや知人に宛てた手紙などだった。自分の命が長くないことを悟っていて、なにか生きた証みたいなものを残したかったのかも知れない。

症状の進行によるものか、薬の副作用のせいか、Yさんは幻覚をみたりひきつけを起こすことが多くなった。
そんなある日、Yさんが突然、こう尋ねてきた。

「死後の世界ってあるんでしょうかねぇ」

一瞬、返事につまったが正直に、

「自分もそのときになってみないとわかりません」

と答えた。
きちんとした回答など期待していなかったであろうYさんは、淋しいそうに微笑み、その話題はそれで終わった。
自分がYさんの口から「死」について耳にしたのは、後にも先にもこれっきりだった。

それから間もなくしてYさんは亡くなった。

その後、まったく別のきっかけで自然が好きになり、あちこちの山に登ったり、旅をするようになった。
時々、Yさんのことを思い出す。
今だったらYさんと、もっと会話が出来たかな。

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2006/12/08

いじめ

最近、連日のようにいじめ問題が報道されている。
20年ほど前にも大きく報道されている時期があったが、
そのことが生かされなかったという感じだ。

マスコミもいじめられる側や学校関係者ばかり興味本位に伝えていないで、
転校制度やフリースクール、いっそ学校に行かない道もあることをもっと世間に知らせればいいのにと思う。
もちろんそういう機関と連携をとらず、いじめがないふりをする学校も悪いが。

いじめ、学級崩壊、夜の町をうろつく子供。
その背景に家庭での怒らない・怒れない親の存在がちらつく。
それに加えての怖くない・品行不良といった先生たち。

そんな歯止めが効かない状態に晒されている子供に対して、
とりあえず避難する場所を提供することが必要ではないか。

別のニュースが職場での大人のいじめが深刻になっていると伝えていた。
なかには「お前は旧日本陸軍の上官か」というくらい、ひどいいじめも。

子供は社会(大人)を映す鏡だ。

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2006/04/15

PICA-DON

子供の頃、小学校の図書室で「ピカドンPICA-DON」というアニメ映画をみたことがある。映像としてみたのはその1回だけだが、未だに強烈な印象が残っている。

偶然、この作品を紹介しているブログをみつけた。

「ピカドンPICA-DON」

画面下の(次のページ)をクリックすると場面がすすんでいく。

1945年8月6日広島。

縁側の戸を開けるお母さん。

街中を走る路面電車。

グランドで体操する子供たち。

そんな、のどかな朝の風景が続く。

でも、原爆を搭載したB-29が現れた辺りから、クリックする指が重くなる。
 
 
 

街の上空で炸裂する原爆。
 
 
そして・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 


初めてこの作品をみたときの、なんともいえぬ後味の悪さがよみがえってきた。

これをみた人が、そのまま反戦・反核論者になるわけではないだろう。
映画やネットで残酷な描写が興味本位にたれ流されている昨今、
この作品も、もしかしたらそれらと同列に扱われてしまうかもという気もする。
しかし少なくとも「原爆は恐い」ということは伝わるのでは。

どちらかといえば子供たちよりも、核兵器を保有している、または保有したがっている国の人たちに見て欲しいと思う。

(管理人さんがどういう人か不明で、この作品を紹介する背景についても全く説明がないので、もしかしたら上記のブログは突然みられなくなるかも知れません)

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2005/08/15

もの言わぬ石柱

pht0416153743.jpg

大阪市内。
人や車で賑わう町並みのとある一角。
ホームレスの居住地となっている、さびれた公園がある。
そこに、その石柱はひっそりと立っている。
一瞬、見ただけでは、その石柱の正体はわからない。


実はこの公園の地下には、戦時中つくられた巨大な防空壕がある。
石柱は防空壕の通気口として使われたものだ。

記録によるとこの防空壕は、当時の大阪市が都市型地下壕として建設し、陸軍が物資の貯蔵目的に使用していたらしい。現在、出入り口はコンクリートで覆われていて中に入ることは出来ない。

地元でも、あまりその存在は知られていない。
誰からも気に止められることなく、ずっと立ち尽くしてきた石柱。
静かに60回目の終戦の日を迎える。

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2005/01/13

震災の記憶

1995年1月17日におきた阪神・淡路大震災から間もなくちょうど10年になる。
地震のあった時刻、自分は大阪の自宅で、たまたま起きていて椅子に座っていた。
5時46分、部屋が揺れだし、「あ、地震だ」と思ったが、いつも感じる地震と違い、激しくまた長時間だった。
目の前で本棚から本がバサバサ落ちるのが見えたが、動くことも出来ず、ただじっとしているしかなかった。
揺れがおさまりテレビをつけてみると、地震速報を流していた。夜の闇に包まれた町並みが映されていたが、特別変わった様子もなく、そのときはいつもより大きめな地震くらいにしか思っていなかった。
ところが夜が明け、テレビでは倒壊した家屋、高速道路、火災、時間を追うごとに跳ね上がっていく死者・行方不明者の数・・・、と信じられない光景が流れていた。そして、その後の長きに渡る混乱、復興・・・。
これらの出来事を忘れてはいけないと思う一方、その他の災害・戦争といった悲劇と同じく時間の流れのなかで、確実に風化していくだろうとも思う。

「災害は忘れたころにやってくる」
そのことを戒める石碑が大阪にある。
DSC00862大正駅近く大正橋の東のたもとにその石碑はひっそりと建っている。
時代は幕末1854年、安政南海地震の翌年に建てられたものだが、残念なことに場所が目立たないうえに、目の前がラブホテルとあって、人々の目にはほとんど触れることはない。
碑文には、地震とそれに伴う津波による被害の様子、前回の地震(宝永地震1707年)でも被害があったが、それを生かすことができず多くの犠牲者を出したことへの無念、この出来事を後世に残して欲しいとの願いが刻まれている。


DSC00863大地震両川口津波記(現代語訳)
嘉永七年(一八五四年)六月十四日午前零時ごろに大きな地震が発生した。
 大阪の町の人々は驚き、川のほとりにたたずみ、余震を恐れながら四、五日の間、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良では死者が数多く出た。
 同年十一月四日午前八時ごろ、大地震が発生した。以前から恐れていたので、空き地に小屋を建て、年寄りや子供が多く避難していた。
 地震が発生しても水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところへ、翌日の五日午後四時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに一斉に津波が押し寄せてきた。
 安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀まで約一・四メートルの深さの泥水が流れ込んだ。両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちてしまった。さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。
 道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった。 大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった。また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると心配した人々が上町方面へ慌てて避難した。
 その昔、宝永四年(一七〇七年)十月四日の大地震の時も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人も多かったと聞いている。長い年月が過ぎ、これを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今また同じように多くの人々が犠牲となってしまった。
 今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけない。また、建物は壊れ、火事になることもある。お金や大事な書類などは大切に保管し、なによりも「火の用心」が肝心である。川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである。
 津波というのは沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある。今回の地震で羽曳野の古市では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川や池のそばに住む人は用心が必要である。
 津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。
安政二年(一八五五年)七月建立


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