カテゴリー「ふと、思う」の16件の記事

震災の記憶(再掲)

以前の記事を再掲載。

震災の記憶

阪神大震災時と比べ全国的に風化してしまうのが早いような気がするのは気のせいだろうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

ニュートラル

10代から20代にかけて、
ひどく人間不信の時期があった。

世間の暗いニュースをみては一人、憤慨する。
他人の欠点をみつけると、すぐに心を遮断する。
でもそういう自分は何者なんだ、
という自問がふと現れ、
それまでの攻撃心が自分に返ってきて落ち込む。

そんなことをよく繰り返していた。

そういうことが続くとしんどいので、
なんとかこの気持を解消できないものかと、
心理学やら宗教関係の本をよく読んだりした。
的をえている部分や耳あたりのいい言葉もあったりしたが、
なにかにひっかかりを感じてしまい、心が晴れることがなかった。

カウセリングなんかでは、
「自分が嫌いな人に自分を変えることは難しい」
と言われている。
そこでまず悪い自分も含めて受け入れることをすすめる。
でも言うは易く行なうは難し。

あと自己啓発セミナーや新興宗教系なんかも、
「今の自分はこんなはずではない」
という人が集まりやすい。
その気持は分からなくはないが、
なにかを一方的に信じろというのが嫌いなので、自分には無理。

そんなある日、テントをかついで四国の方に旅にでた(といっても5日間ていどの短いものだが)。
環境を変えて気分転換がしてみたい、程度の軽い気持ちだった。

どこぞの山道をてくてく一人で歩いていると、
目の前に広大な森と山が広がっている景色がみえた。
それをしばらく眺めていると、
「人間てなんてちっぽけなんだ」
と直感的に悟った。

別に自分を卑下するわけではなく、
ただ人の存在は豆粒みたいでその一生も、
自然からしてみれば一瞬のことなんだ、と思った。

そう思うとそれまで自分の抱えていたもやもやした気持ちも、
すーっと小さくなり、それからはずいぶんと気持ちが楽になった。

で、今でも悶々とすることがあると、そのときの気持ちを思い出すようにしている。

自分の気持ちをニュートラルにできるかどうかって、
頭でっかちになりがちな今の世の中では、
大事なことだと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

生まれてきてくれて

あまりにも暗いニュースは意識的に取り上げないようにしているが、
こないだ大阪で起こった幼い姉弟餓死事件は、
いろいろ思うことがあったので徒然と書いてみる。

他人を愛せない無責任な子供が、
心が成長することなく大人になり子供を産んでしまった。
そして悪いことにその大人の格好をした子供には、
頼れる者も叱ってくれる者も近くにいなかった。
孤独感と子育ての邪魔くささから、
わが子への愛情を失い、
子供が飽きた玩具を捨てるかのように見捨てた。

世間で鬼、冷酷と罵詈雑言を浴びている犯人の母親は、
おそらく自分のやった行為がどれほど酷いことだったか、
まったく自覚が出来ていない。
だからこそ事件後、恐ろしいほど無邪気に、
わが子のことを忘れて遊んでいられた。

検死がすすんで姉弟らが閉じ込められた部屋の中で、
どういう末路を辿ったのかが明らかになってきたが、
わが子の最期の様子を知っても、
この母親は無邪気な子供のままでいるんだろうか?
それとも真摯にごめんなさいと思えるだろうか?

昔も飢饉などで親がわが子を手にかける間引きという風習があった。
しかし自分が遊ぶために間引いてしまうというのは、
なにかが飽和してしまっている。

この事件が怖いのはこの母親が決して特殊な人間ではなかったことだ。
育った家庭環境にいろいろな指摘もあるが、
どれも世間ではありがちなことで事件に結びつくような逸脱した要素はない。

ごく普通に生活している人物が、突然、身の毛もよだつ事件を起こす。
最近はすっかりお馴染みになってしまった。

他人への思いやりの欠如
歪んだ自己愛
生活の基盤が人間関係ではなく自己の欲求

自身と社会や家庭とのつながりが皆無なので、
生活基盤を喪失することへの恐れがない。

こういう人間はたくさんいる。
ただ事件を起こすきっかけがあるかないかだ。

う~ん、話が逸れてきた。
上の事件に戻ろう。

自分の身を守れない幼い子供が、
安心出来る場所が親の腕の中だ。
その親が守ってくれないどころか、
命を脅かされることになれば、
どうしようもなくなってしまう。

なんのために生まれたのか考えることもなく、
ただ怯えながら死を待つだけ・・・。

誕生(動画)

母親の子育てブログから、こうときもあったはず。
なんでその気持をもう少し大事に出来なかったのか。
希望ある上の歌が、ただ虚しく哀しく聴こえる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

京橋空襲

もうすぐ終戦記念日を迎えるが、
この日の事を思うと、ある空襲の事が頭をよぎる。

1945年8月14日午後1時16分、
145機ものB29爆撃機の編隊が大阪に飛来し、
当時、大阪城内にあった大阪砲兵工廠を壊滅させる為、
総計700トンもの爆弾を投下した。
爆撃時間は45分ほどであったが、
そのうちの1発が標的を外れ、
大阪城に隣接する京橋駅を直撃する。
そのとき駅内には多数の乗客がおり、
700~800名もの人間が命を落とした。
そしてあくる15日、日本は終戦を迎える。

京橋空襲

終戦があと1日、早ければその人たちは死なずにすんだのに・・・。

そもそも戦争がなければ大勢の人間が死ぬ事もなく、
それぞれがまったく違った人生を送ったろうに、
とつくづく戦争って罪深いと思う。

今も戦争責任や軍備の必要性を巡って論議されているが、
戦争そのものより論客たちの背景にある思想や政治的なものが、
ちらちらしてどちらの言い分も腑に落ちないことが多い。

そういった持論を持った人たちが議論を交わす際には、
どんなに主義主張の違う者同士であっても、
まずは一緒に犠牲者らに手を合わせて欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

うたかた

何度、誕生日を迎えても、なかなか年をとるという実感がわかない。

でも、そのことを感じる出来事が二つほどある。

ひとつは同年代の知人らが家庭を持ち、お父さんお母さんになること。

もうひとつは自分の幼い頃を知る人々が、年々少なくなっていくこと。

今日、小さい頃からよく知っていた親類が亡くなったとの訃報がある。

また一人、過去を共有する人がいなくなった。

これから年を重ねるごとにそういう機会が増えていくだろう。

まことに寂しいことだが、だからこそ人とのつながりは貴重。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

あの日の絵日記

若い頃に広島で原爆で被爆した女性が、
大人になってから当時の様子を絵日記として再現。

グランドゼロ1945

これを描かれたのが58歳とのことなので、
おそらく40年は経っているはず。
なのに、まるで昨日の出来事のように克明に描かれている。

ご本人がこの絵を描いている時の心境を思うと、
なんだか堪らないものがある。

他にも原爆の記憶を再現した絵は多いが、
どれも非常に生々しい。

忘れてしまいたいとても恐ろしい出来事のはずが、
いかに鮮明な記憶として焼きついているかが忍ばれます。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

震災の記憶(再掲載)

今年も1月17日がやってきた。

13年前に阪神淡路大震災があった日だ。

社会的にも自分のなかでもどんどん風化していくことを感じつつ、
やはり忘れてはいけないだろうと思う。

そこで2005年1月の記事を再掲載しておきます。

震災の記憶(過去記事)

安政南海地震

| | コメント (0) | トラックバック (0)

なんか不快

全国で定期的に開催されている「人体の○思議展」。

未だ行ったことはないが、
チラシなどに載っている血管や筋肉が、
むき出しになった人体標本の写真で、
大体の内容は想像できる。

開催の主旨としては普段みることのない、
人体の中身を「生」で観ることによって、
生命に対して驚きと感動を・・・、
といったものだろうとは思う。

でも、どうも自分には死体を、
物珍しげに見物するだけのように思えて、
趣味が悪い感じがしてしょうがない。

献体した人の生前の意志を尊重とあるけど、
なにやらポーズをつけさせられた写真をみる限り、
やっぱり見世物としか思えない。

主旨通りに感動する人もいるんだろうけど、
多分、自分にはその感性はない。

特殊清掃「戦う男たち」
※閲覧注意

かなりハードな内容だけど、
同じ死体を扱うのなら、こちらのサイトのほうが、
いろいろと考えさせられる。

(追記)
なぜ不快に思うのか、
その後もいろいろ考えてみた。
標本がすべてまったくの作りものなら、
そう抵抗もなかったと思う。
かって生きていた人間の身体を使っていながら、
そこからは故人を偲ぶ、あるいは「死」といったものを
あまり連想させないことに一番ひっかかる。

檀林皇后九想図

※閲覧注意

その昔、壇林皇后という女性が、
鳥や獣達を飢えさせないようにと、
自分の死後、遺体を埋葬せず野原にさらさせ、
朽ち果ててていく様子を絵師に書き留めさせた、
との言い伝えのある絵。

なんとも切なくなる絵だけど、
これも人の本来の姿なのかと、
思い知らされる。

そもそもテーマが違う!といわれれば、それまでだが。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

ある動画

最近、ユーチューブの宗教紛争を扱った某ドキュメント動画を観る。

7分足らずの再生時間だが、
集団による狂気がもたらす惨状がどういうものか、
ありのままの映像で詰め込まれていた。

組織的な憎悪。

復讐の連鎖。

戦争に巻き込まれるということは、
こういうことだろうと思う。

でも、インターネットというバーチャルな世界では、
どんな悲惨な映像も、
「グロ」「エグイ」「こんなのみたって全然平気」
という他人事としか捉えられなかったり、
それどころかスプラッター映画を観るような感覚で楽しむ人間も大勢いる。

それは死者に対する冒涜でしかない。

現実を知るためには、
目をそむけることなく直視することも
必要との意見もあるが、
果たしてどうなんだろう?

映像はあくまで映像であり、
現実を知るということにはならない。

まして実際の戦争体験を聞いても、
街中に転がる死体の山に、
最初の頃こそ恐怖や哀れみを感じても、
やがては感覚が麻痺していくそうだ。

現実を知る知らない以前に、
他人の痛みがわかる感性が
あるかないかが問題だろう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

犬を飼う

自分が生まれた時から、
自宅には犬がいた。

小学2年生のとき自分が名付けた子犬が死んでしまった時、
生まれた初めて自分のこと以外で泣いた。

リキ、ペロ、ジュリー、ヤマト、七公、ヒロ・・・。

拾ってきたり迷い込んできたりと、
絶えることなく何十年も家には犬の姿があった。

でも5年前に最後の犬がいなくなってから、
また飼ってみたいという気持ちはあるものの、
現在に至るまで我が家では犬は不在のまま。
理由は・・・。

犬を飼うってステキです-か?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧